飯野賢治 著『ゲーム』ゲームに情熱を燃やした青春パンクな飯野賢治氏の痛快自伝的小説!

飯野賢治という男を覚えているだろうか

今から20年前くらい、プレステ(プレイステーション)、サターン(セガサターン)というゲーム機がありました。

PSX-Console-wController.png

PlayStation (ゲーム機) – Wikipedia

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セガサターン – Wikipedia

現在30代、40代ならばまずご存知でしょう。

サターンを買って、欲しいゲームがプレステでしか発売されない!と悔やんだ人も居たのではないでしょうか。

僕もなぜかサターンを購入し、それなりに楽しんでいたのですが段々と周りはプレステ派ばかりになり、欲しいソフトもプレステだけ発売されるようになっていき、ゲームから離れて行ったのです。

確かあの頃1990年代~2000年代はゲーム業界も熱くて、それまで任天堂の一人勝ちだったゲーム業界にソニーが殴りこみ、セガもこの時とばかりに勝負をかけたのです。

そういえば3DOなんてハードもありましたね。

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3DO – Wikipedia

あれ、データ読み込みにメッチャ時間がかかって、ゲームが途中で止まるんですよ(笑)

カセットからDVDへとゲームソフトの媒体も移行し、従来に比べて桁違いに大容量の作品が作られるようになりました。

データ容量が増したことで、ゲームは作る側の自由度が非常に増したのです。

コレによってゲームに作家性というものがかなり付加され始めるのです。

ゲームクリエイターが普通にメディアへ顔を出すようになるのはこの頃からじゃないかと思います。

時はゲーム業界の過渡期であり、まさに戦国時代の様でした。

そんな中、テレビや雑誌によく出ていたのが、ゲームクリエイターの『飯野賢治』さんでした。

トゥナイトⅡとか、ゲームショウのインタビューなんかに結構出てましたよね。

僕は当時見ていて、大きくて凄くインパクトのある人でトークがとても上手いという印象でした。

実際、彼がDJを務めていたラジオ番組「ナイトワープ」なんかも聴いていたのですが、普通にトークが面白かったのを覚えています。

土曜の深夜だったと思うのですが、AMラジオ派の僕もそのときだけFMを聴いていたものです。

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また自身も音楽好きで音楽業界内にも知り合いが多く、坂本龍一さんなんかとも交友がありました。

自分のゲーム音楽も手掛けていて、そういったマルチな才能に憧れたものです。

僕は彼から非常に大きな影響を受けていまして、生き様みたいなものを事あるごとにチェックしていました。

正直言って、そこまでゲーム作品に関しては追いかけていないのですが、彼の発するカルチャーみたいなモノが常に気になる存在でした。

初めてブログというものを知ったのも彼でしたし、Twitterも彼からでした。

僕は一度も持っていないのにアップル製品に関して早めに情報をつかんでいたのも彼のブログがあったからこそでした。

ゲーム業界を急ぎ足で駆け巡った時代の風雲児『飯野賢治』

飯野賢治さんは1970年生まれのゲームクリエイターです。

東京生まれで埼玉県越谷に引越し、小学校中学を経て高校を中退します。

18歳でゲーム会社に入社し、24歳で独立、1994年に株式会社ワープを設立します。

翌1995年に発表した「Dの食卓」が大ヒットし、一躍有名になります。

この「Dの食卓」、今では当たり前になっている3Dゲームの先駆けでして、更に映画を見ているような世界観、斬新で当時にしては過激なストーリーが話題になりました。

その後も絵の無い音だけのゲーム「風のリグレット」など、前衛的な作品を出していきますが、「Dの食卓2」以降は作品のリリースが段々と無くなります。

その後、会社も「スーパーワープ」から「フロムイエロートゥオレンジ」へと変わり、ゲーム会社としての活動は殆どなくなりました。

この頃はゲーム製作というよりコンピュータネットワークやIT関連の仕事をメインに行っていたようです。

僕自身も高校生以降は殆どゲームをやらなくなったので、ブログやツィッターで彼の発言をチェックすることしかしていませんでした。

2008年以降はiphone用ゲーム「newtonica」を、続けて2009年にはWiiから「きみとぼくと立体。」を発表します。

何となくゲーム業界へ戻ってくるのかなと思っていた矢先、2013年2月に高血圧性心不全が原因で42歳の若さでお亡くなりになりました。

飯野賢治 – Wikipedia

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著書『ゲーム』はパンクな青春自伝的小説

 飯野さん、思えば24歳でゲーム会社を立ち上げているんですね。

この本の初版が1997年ですので、彼の27歳までが綴られているわけです。

そんな若さ溢れたエネルギッシュな生き様がこの小説『ゲーム』には思いっきり詰まっています。

秋葉原と音楽を通してパソコンに初めて触れた少年時代。

埼玉で登校しながら音楽と哲学に傾倒していく学生時代。

「一身上の都会」という名(迷?)言を残して高校を去り、何者でもない自分に悩めるニート時代。

ゲーム会社に就職するものの、やりたい事との狭間で葛藤する社会人時代。

本当にやりたい事を仲間たちとやるために立ち上がったワープ時代。

どの時代も熱く煌めいて生きていく様が非常にカッコいいと感じました。

この本のココがオススメ!

1.少年時代の記憶

自伝的小説が好きな僕には非常に楽しめました。

一言で言うと早熟で感性の豊かな子供だったんだろうなと思いました。

それゆえに孤独も感じた事でしょう。

家庭環境的にも小学2年で母親が失踪し、父子家庭になります。

父親からの影響と居なくなった母親への慕情、それを飯野少年がどう受け入れたのか。

僕はこの小説の小学校~高校の話が一番好きで、それはやはり誰しも青春があり、悩み、葛藤しながら成長したことに共感するからなのでしょう。

2.時代の風雲児がゲームに賭ける熱さ

1990年代のゲーム全盛期に時代の風雲児としてメディアに多く露出していたわけですがそんな彼がどうやって自分の会社「warp」を立ち上げるかという所も興味深かったです。

代表作である「Dの食卓」は3Dゲームがまだ世に殆どない頃に発表された作品であると共に、その過激な内容ゆえリリースが危ぶまれていました。

そこで彼が取った戦略は、健全な内容の試作版で検閲を避け、ディスク製作のためにアメリカへ向かう機内で、、、というスリリングな逸話も。

メディアでは怪童のような、カリスマのような扱いを受けることもありましたが、学生時代から人一倍悩み、迷い、模索した結果の結果が『ゲーム』であったと感じます。

彼はきっと自分を表現したくて、その手段が『ゲーム』だったのでしょう。

生い立ちと安易に繋げる事は憚られるのですが、強気なイメージとは裏腹に本当は皆に認めもらう事で承認欲求を満たしたかったのではないのでしょうか。

3.プレステからサターンへ、ソニーへの決別がしっかりと書いてある

いわゆる「エネミー・ゼロ事件」と言われるもので、発表当時はかなりニュースになった出来事でした。

要約すると、プレステを扱っていたソニーに不信感を抱いた飯野賢治が、新作ゲーム発表会でプレステからの撤退とセガへの参入を発表しちゃった事件です。

しかしこの本を読むとそこに至るまでの葛藤が綴られています。

この事件がなかったら今でもソニーはこんな感じだったのかも?もしかしたら?と思うと彼しかこの決断は出来なかったのではないでしょうか。

まとめと思ったこと

飯野賢治著『ゲーム』は生きることに情熱を燃やしたパンクな青春小説だ!

・この本を初めて読んでからもう15年以上経過してしまった

・こんな熱い男になりたいぜ!

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