プラスマイナスゼロの世界

最近、身の回りに起こったこと

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[http://photo credit: Even in the middle of nowhere…. via photopin (license)]

先日、セラピーを受けた翌日に、偶然にも母親から連絡があった。

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実家を引っ越すので、今度引越し先までご飯を食べにこないか?というものだった。

セラピー後、親との関係が今までと違う思いに変わっていたので、行くことにした。

行ってみたら、とても歓迎された。

僕はこの数十数年の因縁など無かったかのように、普通に接することが出来た。

目を見てしっかり話すことも出来たし、真面目な仕事の話もプライベートな多少の砕けた話も出来た。

妹夫婦も来ており、姪っ子との初対面もあった。

それはもう、終わりに差し掛かった映画のワンシーンのような、慎ましくも穏やかな瞬間が流れていた。

何だかとても奇跡っぽいな、と思った。

自分で決めて動いた

その時にはセラピーを受けたことで、全てが丸く収まっているという感じがあった。

そして帰りの電車内で、今日の出来事を反芻した。

確かにセラピーのお陰はとてもある。

だけどその事象だけに寄りかかってしまったら、今後問題が発生する度にセラピーのお世話になる必要がある。

あくまでもそれはギヤを入れ替える力のような、線路のポイントがある時切り替わるような、外的なきっかけを与える力のようなものだと思う。

分かっているけれど自分じゃ認められない、変わりたいのに一人じゃ動けない、そんな部分を指摘し、ほぐす様なものだと思う。

だからセラピーをきっかけとして、自分がどうしたら今回のような奇跡が起きたかを掘り下げてみたかった。

そこで行き着いたのは、「自分で参加すると決めた」ことだった。

勿論セラピー無しには今回の食事会に参加したかすら疑問だ。

だからセラピーの効果を非常に実感している。

ただ最終的には、それらの結果を自分で受け止め、どう動くかだけだと断言できる。

取り囲む世界は均衡を保っている

例えば、セラピーを受けずにいたらと考えてみた。

おそらくそれでも両親は久々に訪れた息子を歓迎しただろう。

そもそも父親の誕生日が近かったため、この日あたりに呼ばれることは偶然でも何でも無いと言える。

誕生日ならば妹夫婦も来るだろうし、そうすれば姪っ子だって来るだろう。

仕事もリタイヤした父親は、好きなことをしている日々で、可愛い孫が来ればそれは上機嫌だろう。

つまり、セラピーを受けても受けなくても、自分以外の状況は何も変わらないということだ。

あとは自分の中でこの状況をどう捉えられるか。

まず、先日のセラピーのお陰で親に対する考え方が変わってきた。

そしてだから「自分で選んで」食事会に参加する事ができた。

普段と違ったのはそこだけだ。

それだけで世界の色は変わった。

大した事じゃなかった

長年あれだけ重大に思っていた問題が、1つのきっかけで大したことじゃなくなってきた。

少年時代や学生時代に辛くて死んでしまいたいような悩みが、今思えばとるに足らないエピソードであるように。

それを問題と定義してしまうから苦しむんだ。

変えたのは、ものの捉え方だけ、見方だけ。

問題と思っていた事は、今も昔も何も変わっていない。

ただそこにあるだけ。

本人の見方によって、それがどうにでも変わる。

僕の場合、その気づきのきっかけは、セラピーだっただけだ。

別の人は友人の死、結婚、一人旅など様々だろう。

そこに気づいてしまえば敵ばかりだと身構えていた世界も、少しはやさしい世界に変わるはず。

そう思うと、結構たのしい。

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